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維新150年白虎隊記事

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2018年 4月13日(金)10時15分36秒
返信・引用
  2018年3月37日
朝日新聞の維新150年シリーズに白虎隊記事が掲載されました。

http://www.ricetech.jp/press/press161016.html

 
 

戊辰150年白虎隊記事

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2018年 4月13日(金)10時10分3秒
返信・引用
  2018年2月16日
読売新聞宮城に白虎隊記事が掲載されました。

http://www.ricetech.jp/press/press161016.html

 

夕刊読売に会津白虎隊の記事記載

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2018年 2月10日(土)16時01分2秒
返信・引用
  2018年1月16日
夕刊読売の「維新の記憶シリーズ」に会津白虎隊の記事が大きく記載されました。
この記事は、2017年12月28日に東京世田谷自宅で、飯沼一元が
取材を受けたものです。

http://www.ricetech.jp/press/press161016.html

 

河北新報「河北春秋」に白虎隊掲載

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2018年 2月10日(土)15時56分51秒
返信・引用
  2018 年1月3日
河北新報「河北春秋」に戊辰150年に向けて、白虎隊士飯沼貞吉の記事が
掲載されました。

http://www.ricetech.jp/press/press161016.html

 

会津白虎隊の悲劇からから150年経ちました、、。

 投稿者:山内利喜夫  投稿日:2018年 1月27日(土)16時24分18秒
返信・引用
  「会津戦争」という悲劇があった戊辰戦争から150年経った
本年平成30年、白虎隊の会の皆さんにお知らせしたい事があります。


近年、近隣諸国との歴史認識のずれにより国家間の軋轢が増す最中
スタンフォード大学フーヴァー研究所教授西鋭夫氏著の「新説・明治
維新」の爆発的なヒットが切っ掛けとなり近代史の見直しが喫緊の課題
となっています。


私が推奨する宮城県出身の小野寺直氏(中国四川大学名誉教授)
著の「世紀の敗訴」は傍観者の歴史書とは一線を画す名著とし
て静かなブームを呼んでおり、明治維新・戊辰戦争とは切って
も切れない関係にある白虎隊の会の皆さんに明治維新・戊辰戦争
の真実をお知らせしたく投稿させてもらいました。


「世紀の敗訴」の概要について以下に示します。


行政の許可を受け、先祖の墓の改葬をしている途中で寺側から請われた
「一時中断」の最中、墓は何者かによって暴かれ遺骨は持ち去られた。
同時に出土した遺品はいつの間にか東京都港区に寄贈され「重要文化財」
に指定された。



先祖の遺品を奪還するには訴訟を起こすしかない著者は平成十五年
(ワ)第二九八一九号事件として訴状を東京地方裁判所に提出し民事第
十八部の扱いとなりました。

結果、意味不明な判決文が提出された。

東京地裁で審議された著者の墓に纏わる『改葬権限』の不当審議の経緯から
炙り出された正史のあからさまな事実を綴る書。


             主な内容


平成六年、著者は東京都港区長の許可を得て、白金台在の寺に
あった玄祖父の墳墓の改葬に取りかかりましたが、改葬の途中
寺側の都合で中断させられました。

その後、寺は所有者である著者の許可なく勝手に著者の墓を掘り
起こし「納骨器」を持ち出して港区に寄贈しました。
これは寺が墓所の管理権を無断所得するために行った不当行為である。

当然、行政はその納骨器が寺の所有物ではないことを知りながら、
寄贈を受けたとして「重要文化財」としたのです。

平成八年、日本経済新聞・読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経
新聞で紹介されNHKでは一時間の特別番組を組み「伊達家の墓地
で発見、青銅器から胞衣桶・・・・」




概要については以上です。


「戊辰の役」で東北の地で即位した通称「東武天皇」は一般的には
「輪王寺宮」であるとされていますがこれは無知蒙昧な薩摩・長州の
下級武士達の作り話なのです。


この作り話を正当化する為に上記に示す陰謀が未だに横行しているの
です。


「戊辰の役」では福島の地で「会津戦争」という悲劇がありました。
東北では実に多くの婦女子が自称・新政府軍に凌辱されていますね。
この「世紀の敗訴」を購読して賊軍「薩長連合」が捏造した偽史で
はなく真実の明治維新・戊辰戦争の実態を知って下さい。


戊辰戦争から150年、心有る福島県民には戊辰戦争の実態が浸透し
つつあります。
東北の地で即位した通称「東武天皇」についての知識も深まりつつ
あります。

白虎隊員の供養の為に、真実を知るべき時がやって来ました。

https://store.shopping.yahoo.co.jp/107943727ry/3.html

 

自刃白虎隊士生家跡記念被

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2017年 9月18日(月)15時40分14秒
返信・引用
  2017年9月16日
自刃白虎隊士生家案内図と生家跡記念碑設置序幕

白虎隊が飯盛山で自刃して、まもなく150年を迎えます。
私は、その中で唯一生き残った白虎隊士飯沼貞吉の孫です。
会津にとって、白虎隊は鶴ヶ城と双璧をなす宝物ではないかと思います。
ところが、白虎隊については、少年たちが「城が落ちた」と誤認して、
自刃したというのが通説になってしまい、本当に残念なことだと思っています。
ネットには、赤穂浪士と白虎隊を比較して、赤穂浪士は本懐を遂げた上、
幕府の命令で切腹したのであっぱれだが、白虎隊は城が落ちたと早とちりして自刃したので、犬死だ。などと書かれています
    しかし、いろいろと調べてみると、白虎隊士は城が落ちたと誤解したのではないことが明らかになりました。
「武士の本分を明らかにする」ために自刃したのでした。
つまり、白虎隊士は「ならぬことはならぬ」という会津魂を守り抜くために自刃したのです。
会津は朝廷に忠誠を尽くしました。それが、いつの間にか朝敵・国賊のレッテルを張られ、敵は錦旗を捏造して会津に攻め込んできたのです。
このような理不尽があってならない。
白虎隊士は「ならぬことはならぬ」の抗議の意思表示として自刃したのです。

白虎隊の会は創立7年になりますが、白虎隊の真実を究明し、白虎隊がなぜ自刃したか、いかに戦ったか、いかに出陣したかについて、記念碑や説明版を設置してきました。
また、白虎隊士の生家跡に記念碑を設置してきました。
    このたび、会津若松観光ビュロー様と共にこの城前一等地に白虎隊士生家案内図を設置することになりました。
本事業に関しては、歴史春秋社様、東海堂アド工芸様にご協力いただくと共に、
福島県の地域創生事業の助成金を得て、会津若松市のご指導の下に実現に至りました。ここに、心より、感謝申し上げます。
   この看板が、白虎隊の理解を深める一助になることを期待しています。

今般、福島県の地域創生事業の支援並びに葵高等学校、竹田総合病院および
若松第2中学のご協力を得て、それぞれ、自刃白虎隊士石山虎之助、安達藤三郎、西川勝太郎の生家跡に記念碑を建てることが出来ました。
石山虎之助は、戸の口原から退却する途中、城に帰ろうとする山内小隊長に対して、「沓掛に赴いて決戦する」と宣言したことが、生残った酒井峰治の手記に記されています。
彼らは、落城と誤認したのではありませんでした。

序幕の後には劇団ぴ~ひゃららによる出陣劇を奉納していただきました。
また、その後は白虎隊が辿った道をバスツアーを実施しました。
これらを通して、白虎隊の真実を理解していただきたく、皆さまのご支援をお願いいたします。

http://www.ricetech.jp/press/press161016.html

 

長州藩士楢崎と会津藩士飯沼の恩愛の碑

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2016年10月20日(木)12時41分47秒
返信・引用 編集済
  2016年10月15日
長州藩士楢崎頼三と白虎隊士飯沼貞吉
の恩愛の碑序幕

幕末から明治にかけて、我が国は激動の波にのまれました。
戊辰戦争で多くの尊い命が奪われてから、今年で148年になります。
幕末期の会津は他のどの藩にもまして、
天皇に忠誠をつくしましたが、朝敵・国賊の汚名を着せられ壊滅しました。
白虎隊士が自刃したのも、この時のことです。

会津にとって長州は決して許すことのできない仇であり、その怨念は未だに脈々と
受け継がれています。
今から19年前、「飯沼貞吉が長州の美祢市楢崎屋敷で養育されていた」
という怪文書が届きました。
悪い冗談は止めて欲しい。飯盛山で自刃に失敗した貞吉は、
「生き返るような切腹の仕方は会津武士らしくない」として会津から白い目で見られ、
その上、あろうことか長州の世話になったなど、あってはならないことでした。
必ずや事実無根の証拠を見つけ出してみせる。
私の白虎隊研究はこうして始まりました。
情報を幅広く集めるために、白虎隊の会も結成しました。

その後、2006年(平成18年)11月に山口県美祢市小杉の楢崎屋敷跡に
美祢市教育委員会が「楢崎屋敷跡説明板」を設置しまた。
その説明文の中に、「会津藩士飯沼貞吉がここで養育された」と明記されていました。
楢崎屋敷は、長州藩士楢崎豊資(とよすけ)の知行地であり、
養子となった頼三が凱旋後、貞吉を連れてきて住まわせた。
なお、この屋敷はその後、高見家の所有となったと記載されていました。

高見家の伝承
貞吉の身の回りの世話をしたのは高見フサ(1855年生まれ、貞吉の1歳年下で
当時は楢崎屋敷に奉公していました。
高見家は女系だったので、後に養子を迎えフサはトシとサトという2人の娘を産んだのです。
長女トシは1873年(明治6年)生まれで、後に養子を迎えて高見家を継ぎました。
その長男高見広義氏は市会議員を勤め、次男高見三郎氏は佐藤内閣の文部大臣を勤めました。
フサは90歳の長寿を全うし1928年(昭和3年)に没しました。

筆者は2006年(平成20年)広義氏の長女吉井綾子さん(当時84歳)にお会いしました。
そのご長男吉井克也氏からは「高見家の口伝が現在も毎年本家に集まるたびに繰り返されている」
との話を聞き、楢崎屋敷の見取り図も入手しました。
克也氏は下関教育委員会で教育に関する仕事をされています。

8年前に、実際に楢崎屋敷跡を訪ね、高見家の伝承を聞き、吉井綾子さんにお会いしてみる
と作り話ではないように思えてきたのです。
140年も前の話をなぜ、5世代にも亘って語り伝えてきたのですか?
「それは高見家の誇りだからです」との回答が明快でした。

そして、楢崎頼三の玄孫に当たる松葉玲子さんにお会いしたのは5年前でした。
楢崎家では「死に損なったのではない。生かされたのだ」と言って貞吉を励ましたと伺いました。
一方、高見家では13歳の娘フサが貞吉の傷を癒すために、献身的な働きをしたことでしょう。
物的証拠は未だ見つかっていませんが、飯沼家としてはこれで十分であると納得しました。

この地に記念碑を設立する話が持ち上がり、本日実現の運びになりました。
貞吉が楢崎屋敷に来たのは満14歳。2年後にはこの地を離れ上京しました。
こんな些細な出来事を記念する意義はどこにあるのでしょうか?
しかし、自刃に失敗し、生きる希望を失い死に場所を探していた貞吉が
回生のきっかけをつかんだのは、まさにこの2年間でした。
飯沼家が今あるのもこの地での営みがあったお蔭であり、過去に遡って御礼申し上げます。
「恩愛の碑」には、過去の恩讐にこだわるのではなく、恩愛の絆によって
問題を克服し、未来を拓いていくという普遍的な願いが込められています。
この碑が、「人間愛と平和を希求する道しるべ」となれば素晴らしいと思います。
今般、飯沼家からは、特にお願いして、身しらず柿の苗を植樹していただきました。
この柿は会津特産で毎年皇室にも献上されていますが、貞吉は身知らず柿を仙台の自宅に植え、
6mもの大木に育てました。
恩愛の碑と共にこの木が大きく育っていくことを切に願っています。

http://www.ricetech.jp/press/press161016.html

 

白虎隊士生家跡石碑

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2016年10月20日(木)12時08分6秒
返信・引用 編集済
  2016年9月22日
第2回『白虎隊士生家跡』除幕式
昨年に引き続き、白虎隊士生家跡に石碑を設置し、序幕しました。
今回は、自刃した白虎隊士津川喜代美と井深茂太郎生家跡に、石碑と説明版を設置し、
除幕式直後には、白虎隊土の召集、出陣に至る経緯を会津の劇団ぴ~ひゃららによる
路上劇として奉納しました。
津川喜代美生家跡は、現在、福島県立若松商業高等学校、
また、井深茂太郎生家跡は、現在、㈱東邦銀行東邦寮となっています。

白虎隊が飯盛山で自刃したのは今から148年前で、まもなく150年を迎えます。
私は、その中で唯一生き残った白虎隊士飯沼貞吉の孫であります。
会津にとって、白虎隊は鶴ヶ城と双璧をなす宝物ではないかと思います。
ただし、白虎隊については、少年たちが「城が落ちた」と誤認して、
自刃したという悲劇物語になってしまったことは、誠に残念なことだと思います。
彼らは、どんな気持ちで出陣し、いかに戦い、なぜ自刃したのか?
これを明らかにすることは、白虎隊の血筋を継ぐ私の使命であると考えています。

飯沼貞吉は白虎隊顛末記という20ページに亘る手記を残しました。
この記録には、飯盛山で自刃する際、「簡単に落城するはずはないから城に戻ろう」
という意見、敵陣に突入して玉砕しようという意見」など激論が交わされ、
最後は「武士の本分を明らかにする」として自刃した明記されています。
つまり、白虎隊士は「ならぬことはならぬ」という会津魂を守り抜くために自刃したのです。
幕末の会津藩は他のどの藩にまして、朝廷に忠誠を尽くしました。
それが、いつの間にか朝敵・国賊のレッテルを張られ、
敵は錦旗を捏造して会津に攻め込んできたのです。
錦旗の捏造は歴史に残る大罪です。
このような理不尽があってならない。
白虎隊士は「ならぬことはならぬ」の抗議の意思表示として自刃したのです。

では、彼らはどんな気持ちで出陣したのか?
白虎隊士津川喜代美は、出陣の10日前に朱雀隊の兄宛に手紙を出しました。
はなむけの歌も書き添えました。
かねてより 親の教えの時はきて 今日の門出ぞ 我はうれしき
16歳にして、立派です。出陣が今か今かと心待ちにしていたことが分かります。
白虎隊士井深茂太郎は飯盛山で「決して城落ちたるに非ず」と落城誤認を否定しました。

除幕式の後は、白虎隊が辿った道のバスツアーを実施しました。
なお、本事業は福島県の地域創生事業の一旦として実施しました。

http://www.ricetech.jp/press/press160923.html

 

会津藩士

 投稿者:五十嵐政次  投稿日:2016年10月 8日(土)07時56分17秒
返信・引用
  山田さんご親切に教えて頂きましてありがとうございます。私もむつ市役所に連絡を取り
先祖がその地に籍を置いていたのか、確認を取った所、田名部に残っていた事が判りました。

また、その他の情報は会津図書館のレファレンスの力を借りました。電話でしたが、快く対応して頂き
寄合という階級で難しいと説明をうけましたが、所蔵の資料でくまなく調べて頂けました。
同館の話では、最近、先祖の事を調べる内容の問い合わせが、多いようで10日ほど時間が掛かりましたが
親身になって調べて頂いた事に心より感謝しております。山田さんもまだでしたら、一度、試されて如何でしょうか。

先祖が味わった、戊辰戦争そして数十年にも及ぶ斗南での過酷な生活を鑑みますと浮かれた気分にも
なれず、子らにも口外せず暮らしてきた事を考えると果たして私のやっている事は正しいのか疑問を感じて
います。本来なら白虎隊の会の皆様の仲間入りをさせて頂きたいのですが、自分の気持ちを整理するのに
時間が掛かるのではないでしょうか。いずれ、私を含む子孫のものが入会をさせて頂くようになるかもしれませんが
その折りはご相談にのって頂ければ幸いです。最後に何度となく掲示板を汚してしまいどうかお許しください。
白虎隊の会の益々のご発展とご子孫の皆様のご健勝をお祈り申し上げます。


 

Re: 会津藩士

 投稿者:山田  投稿日:2016年10月 3日(月)11時10分38秒
返信・引用
  > No.234[元記事へ]

はじめまして、山田と申します。初めて書き込ませていただきます。
もう必要な情報は得られていらっしゃるかもしれませんが、
ネットで斗南藩の名簿(一般の方の作成のもの)があり、
そちらに五十嵐忠三郎さんのお名前がありました。

明治14年旧斗南藩人名録(戸主)
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame7/tonami-meibo.htm
五十嵐忠三郎 下北郡田名部村


私自身母方が会津藩の下級武士の家で、戊辰戦争では白虎隊だったと言い伝えがあり(菩提寺の過去帳にも記載あり、ただしこちらの名簿には名前なし)、こちらを拝見させていただいておりました。
下級武士なので情報が得にくい状況で、
会津藩士さんのご先祖様がネットで確認できることが正直うらやましいです。
ご参考まで。
 

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