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長州藩士楢崎と会津藩士飯沼の恩愛の碑

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2016年10月20日(木)12時41分47秒
返信・引用 編集済
  2016年10月15日
長州藩士楢崎頼三と白虎隊士飯沼貞吉
の恩愛の碑序幕

幕末から明治にかけて、我が国は激動の波にのまれました。
戊辰戦争で多くの尊い命が奪われてから、今年で148年になります。
幕末期の会津は他のどの藩にもまして、
天皇に忠誠をつくしましたが、朝敵・国賊の汚名を着せられ壊滅しました。
白虎隊士が自刃したのも、この時のことです。

会津にとって長州は決して許すことのできない仇であり、その怨念は未だに脈々と
受け継がれています。
今から19年前、「飯沼貞吉が長州の美祢市楢崎屋敷で養育されていた」
という怪文書が届きました。
悪い冗談は止めて欲しい。飯盛山で自刃に失敗した貞吉は、
「生き返るような切腹の仕方は会津武士らしくない」として会津から白い目で見られ、
その上、あろうことか長州の世話になったなど、あってはならないことでした。
必ずや事実無根の証拠を見つけ出してみせる。
私の白虎隊研究はこうして始まりました。
情報を幅広く集めるために、白虎隊の会も結成しました。

その後、2006年(平成18年)11月に山口県美祢市小杉の楢崎屋敷跡に
美祢市教育委員会が「楢崎屋敷跡説明板」を設置しまた。
その説明文の中に、「会津藩士飯沼貞吉がここで養育された」と明記されていました。
楢崎屋敷は、長州藩士楢崎豊資(とよすけ)の知行地であり、
養子となった頼三が凱旋後、貞吉を連れてきて住まわせた。
なお、この屋敷はその後、高見家の所有となったと記載されていました。

高見家の伝承
貞吉の身の回りの世話をしたのは高見フサ(1855年生まれ、貞吉の1歳年下で
当時は楢崎屋敷に奉公していました。
高見家は女系だったので、後に養子を迎えフサはトシとサトという2人の娘を産んだのです。
長女トシは1873年(明治6年)生まれで、後に養子を迎えて高見家を継ぎました。
その長男高見広義氏は市会議員を勤め、次男高見三郎氏は佐藤内閣の文部大臣を勤めました。
フサは90歳の長寿を全うし1928年(昭和3年)に没しました。

筆者は2006年(平成20年)広義氏の長女吉井綾子さん(当時84歳)にお会いしました。
そのご長男吉井克也氏からは「高見家の口伝が現在も毎年本家に集まるたびに繰り返されている」
との話を聞き、楢崎屋敷の見取り図も入手しました。
克也氏は下関教育委員会で教育に関する仕事をされています。

8年前に、実際に楢崎屋敷跡を訪ね、高見家の伝承を聞き、吉井綾子さんにお会いしてみる
と作り話ではないように思えてきたのです。
140年も前の話をなぜ、5世代にも亘って語り伝えてきたのですか?
「それは高見家の誇りだからです」との回答が明快でした。

そして、楢崎頼三の玄孫に当たる松葉玲子さんにお会いしたのは5年前でした。
楢崎家では「死に損なったのではない。生かされたのだ」と言って貞吉を励ましたと伺いました。
一方、高見家では13歳の娘フサが貞吉の傷を癒すために、献身的な働きをしたことでしょう。
物的証拠は未だ見つかっていませんが、飯沼家としてはこれで十分であると納得しました。

この地に記念碑を設立する話が持ち上がり、本日実現の運びになりました。
貞吉が楢崎屋敷に来たのは満14歳。2年後にはこの地を離れ上京しました。
こんな些細な出来事を記念する意義はどこにあるのでしょうか?
しかし、自刃に失敗し、生きる希望を失い死に場所を探していた貞吉が
回生のきっかけをつかんだのは、まさにこの2年間でした。
飯沼家が今あるのもこの地での営みがあったお蔭であり、過去に遡って御礼申し上げます。
「恩愛の碑」には、過去の恩讐にこだわるのではなく、恩愛の絆によって
問題を克服し、未来を拓いていくという普遍的な願いが込められています。
この碑が、「人間愛と平和を希求する道しるべ」となれば素晴らしいと思います。
今般、飯沼家からは、特にお願いして、身しらず柿の苗を植樹していただきました。
この柿は会津特産で毎年皇室にも献上されていますが、貞吉は身知らず柿を仙台の自宅に植え、
6mもの大木に育てました。
恩愛の碑と共にこの木が大きく育っていくことを切に願っています。

http://www.ricetech.jp/press/press161016.html

 
 

白虎隊士生家跡石碑

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2016年10月20日(木)12時08分6秒
返信・引用 編集済
  2016年9月22日
第2回『白虎隊士生家跡』除幕式
昨年に引き続き、白虎隊士生家跡に石碑を設置し、序幕しました。
今回は、自刃した白虎隊士津川喜代美と井深茂太郎生家跡に、石碑と説明版を設置し、
除幕式直後には、白虎隊土の召集、出陣に至る経緯を会津の劇団ぴ~ひゃららによる
路上劇として奉納しました。
津川喜代美生家跡は、現在、福島県立若松商業高等学校、
また、井深茂太郎生家跡は、現在、㈱東邦銀行東邦寮となっています。

白虎隊が飯盛山で自刃したのは今から148年前で、まもなく150年を迎えます。
私は、その中で唯一生き残った白虎隊士飯沼貞吉の孫であります。
会津にとって、白虎隊は鶴ヶ城と双璧をなす宝物ではないかと思います。
ただし、白虎隊については、少年たちが「城が落ちた」と誤認して、
自刃したという悲劇物語になってしまったことは、誠に残念なことだと思います。
彼らは、どんな気持ちで出陣し、いかに戦い、なぜ自刃したのか?
これを明らかにすることは、白虎隊の血筋を継ぐ私の使命であると考えています。

飯沼貞吉は白虎隊顛末記という20ページに亘る手記を残しました。
この記録には、飯盛山で自刃する際、「簡単に落城するはずはないから城に戻ろう」
という意見、敵陣に突入して玉砕しようという意見」など激論が交わされ、
最後は「武士の本分を明らかにする」として自刃した明記されています。
つまり、白虎隊士は「ならぬことはならぬ」という会津魂を守り抜くために自刃したのです。
幕末の会津藩は他のどの藩にまして、朝廷に忠誠を尽くしました。
それが、いつの間にか朝敵・国賊のレッテルを張られ、
敵は錦旗を捏造して会津に攻め込んできたのです。
錦旗の捏造は歴史に残る大罪です。
このような理不尽があってならない。
白虎隊士は「ならぬことはならぬ」の抗議の意思表示として自刃したのです。

では、彼らはどんな気持ちで出陣したのか?
白虎隊士津川喜代美は、出陣の10日前に朱雀隊の兄宛に手紙を出しました。
はなむけの歌も書き添えました。
かねてより 親の教えの時はきて 今日の門出ぞ 我はうれしき
16歳にして、立派です。出陣が今か今かと心待ちにしていたことが分かります。
白虎隊士井深茂太郎は飯盛山で「決して城落ちたるに非ず」と落城誤認を否定しました。

除幕式の後は、白虎隊が辿った道のバスツアーを実施しました。
なお、本事業は福島県の地域創生事業の一旦として実施しました。

http://www.ricetech.jp/press/press160923.html

 

会津藩士

 投稿者:五十嵐政次  投稿日:2016年10月 8日(土)07時56分17秒
返信・引用
  山田さんご親切に教えて頂きましてありがとうございます。私もむつ市役所に連絡を取り
先祖がその地に籍を置いていたのか、確認を取った所、田名部に残っていた事が判りました。

また、その他の情報は会津図書館のレファレンスの力を借りました。電話でしたが、快く対応して頂き
寄合という階級で難しいと説明をうけましたが、所蔵の資料でくまなく調べて頂けました。
同館の話では、最近、先祖の事を調べる内容の問い合わせが、多いようで10日ほど時間が掛かりましたが
親身になって調べて頂いた事に心より感謝しております。山田さんもまだでしたら、一度、試されて如何でしょうか。

先祖が味わった、戊辰戦争そして数十年にも及ぶ斗南での過酷な生活を鑑みますと浮かれた気分にも
なれず、子らにも口外せず暮らしてきた事を考えると果たして私のやっている事は正しいのか疑問を感じて
います。本来なら白虎隊の会の皆様の仲間入りをさせて頂きたいのですが、自分の気持ちを整理するのに
時間が掛かるのではないでしょうか。いずれ、私を含む子孫のものが入会をさせて頂くようになるかもしれませんが
その折りはご相談にのって頂ければ幸いです。最後に何度となく掲示板を汚してしまいどうかお許しください。
白虎隊の会の益々のご発展とご子孫の皆様のご健勝をお祈り申し上げます。


 

Re: 会津藩士

 投稿者:山田  投稿日:2016年10月 3日(月)11時10分38秒
返信・引用
  > No.234[元記事へ]

はじめまして、山田と申します。初めて書き込ませていただきます。
もう必要な情報は得られていらっしゃるかもしれませんが、
ネットで斗南藩の名簿(一般の方の作成のもの)があり、
そちらに五十嵐忠三郎さんのお名前がありました。

明治14年旧斗南藩人名録(戸主)
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame7/tonami-meibo.htm
五十嵐忠三郎 下北郡田名部村


私自身母方が会津藩の下級武士の家で、戊辰戦争では白虎隊だったと言い伝えがあり(菩提寺の過去帳にも記載あり、ただしこちらの名簿には名前なし)、こちらを拝見させていただいておりました。
下級武士なので情報が得にくい状況で、
会津藩士さんのご先祖様がネットで確認できることが正直うらやましいです。
ご参考まで。
 

会津藩士

 投稿者:五十嵐政次  投稿日:2016年 8月 6日(土)22時43分54秒
返信・引用
  忠三郎の妻、こう(嘉永三年~大正九年没)の父は栗原類右衛門(江戸藩邸中屋敷、照姫付)で私共の戸籍にもその名が
付け加えて有りますが、益々、二人の兄弟が会津藩に仕えたものだと疑わざるを得ないように思われます。
また、親戚のものから、御殿女中だったものがいたような事を親から言われたと話すものもいて、もしかするとその妻、
こうが、その女中だとすれば謎が解けるのかも知れません。

私の手元には大正時代の頃の戸籍しかありません。その為に、斗南藩が有った、むつ市役所に戸籍が残っているのか
照合もしている最中です。

一本一本、紐が解けるようにお陰様で先祖の事が分り始めています。これも偏に白虎隊の会の皆様、並びに会津藩を
時代検証されている方々の賜物で、私がその事で偶々、知り得ただけのものです。また、全ての事が判明されましたら、
会津を訪ね、ご先祖様に線香を手向けたいとも考えています。最後に子孫を代表しまして、心より深く御礼申し上げます。
有り難うございました。
 

会津藩士

 投稿者:五十嵐政次  投稿日:2016年 8月 2日(火)21時40分21秒
返信・引用
  はじめての投稿です。私事で申し訳ございませんが、先日の事です、五十嵐忠三郎(曾祖父)とインターネットで
検索してみると会津藩士で有った事が分りました。
朱雀寄合四番隊に属し戊辰戦争では城を守る為に戦い、敗戦の後に東京にて謹慎、その後、斗南へと流刑されたようです。

そして、まさかと思い曾祖父の弟の名(五十嵐直五郎)も検索してみると白虎寄合二番隊で有る事も分りました。
親からは、ご先祖さまが「武士」であった事は薄々知らされていましたが、まさか会津藩士であった事などこんな歳に
なるまで分りませんでした。
これからは、我々には会津藩士の血が流れていることを自覚して、子孫代々言い伝えていきたいと思っています。
 

白虎隊隊士帯刀の御刀について

 投稿者:渡辺一智  投稿日:2015年12月 9日(水)13時47分14秒
返信・引用
  初めて投稿させていただきます。

当方で、白虎隊隊士が帯刀されていたという云われのある御刀を購入しました。
日刀保の鑑定書「会津道辰」の保存刀剣と鑑定されています。この御刀の云われにつきましては、購入元の川上さまより下記の通りきいております。

『わたくしども、特に、父80歳(研ぎ師)が、御刀の商いや日刀保のお付き合いを通じて「小川様」という福岡市の資産家の方とお付き合いがございました。この小川様が、この刀が曰くのある御刀であることを、関西に在住の前所有者で、会津藩士のご子孫からお聞きなり、有償にてお買いになったと聞いております。

そして、お買いになってすぐ、御刀が無銘であることから、本当に曰くのとおり、会津白虎隊の生家に伝わったものであるか、会津の地元の刀であれば、という思いもあり、日刀保に鑑定に出されました。

そのときは、会津のどの刀匠とも見当は付かず、審査に出されたということです。幸いにも言い伝えの通り、会津のお刀と鑑定され、曰く・言い伝えが事実と言えるだろうと思えることから大切に所持されてきました。
その後、10年以上の年月が経ち、2年前に小川様がご他界され、この度、わたくしどもで、30数本の資産整理をさせていただくことになりました。

「生き残った隊の隊士の生家に伝わった御刀であるとの言い伝えがあること。」「それが、関西の生家の分家と思われる方へ資産分割されたこと。」「加えて、時が過ぎ、福岡市の小川様が有償でお譲り頂かれたこと。」「言い伝えにのっとり、会津の地元の刀であれば、言い伝えも事実だろうと鑑定に出され、会津道辰と鑑定されたこと。」を聞いていたお刀です。』


このことから、帯刀していた白虎隊隊士の氏名もしくは御子孫の方を探しております。
上記のことが確認できれば、福島県にとっても貴重な御刀になると思いまして投稿させていただきました。

もし、心当たりのある方を御存じでしたらご連絡願います。
 

白虎隊士生家跡記念碑

 投稿者:飯沼一元  投稿日:2015年10月 5日(月)07時37分52秒
返信・引用
  2015年9月22日
白虎隊生家跡記念碑設置を行いました。
白虎隊が飯盛山で自刃したのは今から147年前で、まもなく150年を迎えます。
私は、その中で唯一生き残った白虎隊士飯沼貞吉の孫であります。
白虎隊は出陣してから自刃するまでは、たった一日の出来事でした。
彼らは、どんな気持ちで出陣し、なぜ自刃したのか?
これを明らかにすることは、白虎隊の血筋を継ぐ私の使命であると考えています。

白虎隊の自刃については、あまりにも有名で、毎年飯盛山で墓前祭も開催されています。
しかし、白虎隊がなぜ自刃したかについては、「お城が燃えている。殿のあとを追おう」
という「落城誤認説」が間違った通説となっております。
実際には、「簡単に落城するはずはないから城に戻ろう」という意見、
敵陣に突入して玉砕しようという意見」など激論が戦わされ、
最後は「武士の本分を明らかにする」として自刃したのです。
2011年に、飯盛山白虎隊自刃の地に自刃理由の説明版を設置いたしました。

昨年は、白虎隊はどこでどのような気持ちで戦ったかを明らかにするために
強清水に白虎隊戦闘の地の説明板を設置致しました。
今回は、出陣の経緯を明らかにするため、
白虎隊生家跡整備事業を福島県の地域創生事業の一旦として実施することになりました。
その内容は、生家跡に記念碑を建てること、出陣の様子を演劇として上演すること、
そして、白虎隊が辿った道をバスツアーとして体験することの3本立てで構成されます。

隊長代行を務めた篠田儀三郎生家跡は、会津若松市米代1-4-30、
現秋山建設の敷地であることが判明しました。
そこで、このたび地元の皆さまをはじめ多くの関係者のご支援を得て、
この地に記念碑を設置すると共に劇団ぴひゃららによる出陣劇を奉納していただくこととしました。
なお、この活動は来年も継続して実施したいと考えていますので、
皆さまのご支援いただきたくよろしくお願いいたします。

 

初めまして

 投稿者:東行  投稿日:2014年 7月15日(火)05時38分20秒
返信・引用
  山川健次郎先生を調べていてここにたどり着いたものです。現在横浜市在住ですが、本籍は山口県で下関市にも住んでいたことがあり、下記記事を懐かしく拝見しました。また飯沼貞吉氏とその後の長州との繋がりやそのお孫さんが初めてお会いになった等の記事も始めて知りました。幕末の歴史に関心を持つものですがよろしくお願いします。  

無料電子書籍紹介

 投稿者:小山啓天  投稿日:2014年 7月 1日(火)21時41分15秒
返信・引用
  土方歳三は松の陰に懐かしい顔を見た。
微笑んで近づくとき殺気を感じて、はっと我に返った。
「そんな筈はない」歳三は抜き打ちの姿勢で身構えた。
無料電子書籍「幕末・桜田三兄弟」のご紹介です。
よろしければご笑読ください。
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